第40章
常識でも疑ってみるのが’道’の活用
柔軟さこそが’道’の本質
すべての物は移ろい行くものであるが、究極的には無形である
(wonderer訳)
当たり前のことを肯定するだけでは本当に良いとは言えません。矛盾することもよくあるからです。だから、あえて当たり前のことを否定的に見ることも必要であると言いたいのでしょう。
そして、当たり前だと強引に押し通すと、人を困らせることがよくあります。だから、何事も強く出るよりも柔軟に考え行動するべきだ、ということだと思います。
すべての物は物質でできているが、物質とは実体など持たないのではないか。だからそれと同じように、道に即した生き方は決まりきった常識などで決めつけることなどできない。そういう意味だと思います。
当たり前とか常識とか書きましたが、具体的には道徳や仁、礼や義といった当時主張されていたものを指すと考えています。もちろん現代的な常識や決まりを指すと考えても矛盾はないと思います。
よく老子は儒教を否定していると言われますが、私はそうは思いません。あまりにテーゼばかりが主張されているので、アンチテーゼを主張していたのだろうと思います。老子はそういう現実的なことをしていただけだ、と思っています。
以下はブログに書いたものです。
言いたいことはこうだと思います。
常識や正義の名の下に争いが行われているが、それが正しいことだろうか。
'道'よる常識や正義というものは、弱者のためにある。
常識や正義には、民のためというはっきりとした目的がある。
しかし、目的がはっきりしていても、それが有効に活用されるためには時に応じて変化する必要があり、人々が考えるような決まりきったものではない。
《この章は老子の四十章ですが、帛書では四十一章です》