第46章
天下に道が行われているのなら、軍馬は畑の肥やしを作り出す
天下に道が行われていなければ、軍馬は戦場で仔馬を産み落とす
欲望のままに行動することほど大きな罪はなく、
満足出来ないことほど大きな災いはなく、
際限なく欲することほど苦痛な咎はない
これで十分と思って満足出来るのならば、満たされないことはない
(wonderer訳)
この章の前半では軍馬の扱われ方の違いを表現することで国の戦争を否定的に見ています。子を産むというのは、幸福な日常を表わしているのだと思います。それは平和を象徴する出来事なのでしょう。それなのに、たとえ馬であっても人を殺す戦場で子を産むなんて、少し変ですよね。そういう事実を指摘して、戦争の非道さを表そうとしているのだと思います。
国や国と利益を同じくする者にとって、戦利品が獲られる戦争は行うことに意義があるでしょうが、一般の民衆にとって戦争は死と直結するものです。決して喜ばしいことではありません。
後半は欲望のままに生きることの批判だと思います。後漢の洪武帝の言葉に「朧を得て蜀を望む」という言葉があるように、人の欲望は相対的で、満たされてもまた新たに欲求が生まれてきます。このくらいでいい、といったところで満足することは、なかなか難しいこともあります。
僕は、自分の欲求を満たすことは、他人に迷惑を与えない限り基本的に許されていいのでは、と思います。人間は本能のよって生きる動物である以上、欲は生きるための生理でもあるはずです。それを否定すると、人間そのものの否定になってしまいます。
重要なのは、
自分の欲求を満たすことが他人の権利を侵害するものではないか
自分の欲求が明らかに不平等ではないか
ということが問題だと思っています。
また、無為無欲というものは心理的に不可能であり、実現できないものだと思います。また人には個人差があり、すべて同じではないのですから、ある程度の「非常識」は、許されることがあってもいいのではないかと思います。「非常識」とは、あくまで大多数の意見であり、その範囲内にすべてが収まるわけではありません。平等と人権の侵害がないのならば、許される場合もあると思っています。
たとえ常識に反することでも、他人への配慮が十分にできているのなら、それほど大きな問題ではないでしょう。人並みで満足できるというのは、ある意味では幸せなことなのだと思います。