第42章
’道’から理想が生じ、
理想から嫌悪が生じ、
それらが混ざり合ったものが生じ、
ここから万物が生じた
万物は陰を負い陽を抱き、
それが混ざり合って調和している
人々はみな孤(一人ぼっち)、寡(徳が少ない)、不穀(悪い人)といったものを憎むが、
これらは王や諸侯が自分を称したものである
傲慢であれば地位を保てず、
謙遜すれば位が安泰なのだ
昔の人が教えたことを、わたしもまた教える
強い者や富貴な者が寿命を全うできないことがある
わたしはこれを基本としよう
(wonderer訳)
「一」とあるのを理想と訳しました。
理想は人々が望むものですが、’道’との違いは望まない部分をも含むからでしょう。たとえば富や地位など、現代では否定的に取られることも多いと思います。そういったものも含む理想。
その反対が嫌悪。これが理想から生まれる、と捉えました。万物はその両方が混ざり合ったものとしました。陰・陽という言葉が出てきました。昼と夜のことらしいですが、日本人の僕にはあまり馴染みのない言葉です。なのでこの辺の訳には自信がありません。
しかし、老子が言いたいのは、人々が求めるものをひたすら求め続けても意味がない、ということでしょう。儒教では中庸の徳というものがありますが、それと同じような意味でしょうか?よくわかりませんが、ここでは物事を相対的に見ています。
理想は絶対的なものもあります。前の章でも書きましたが、戦争などはないほうがいいに決まっています。また、飢えや病気などもないに越したことはありません。だから平和や健康などは、絶対的な理想であると言えるでしょう。
現代においては冷蔵庫やテレビなどがありますが、昔は権力者だってそんなものはありませんでした。昔と比べると、現代では普通の人でもかなり良い暮らしをしていると言えます。それでも普通だと思えるのは、決して贅沢だからではなく、一般的に見て良くも悪くもないからです。
日本は世界的に見てもかなり豊かな国ですが、他の人も同じような暮らしをしていると思えたら、それが私たちにとって「普通の暮らし」なのです。しかし、日本人はもっと世界に目を向けるべきですが・・・。
何が問題かと言えば、やはり満足せずに欲求を満たそうとすることだと思います。他人のことも考えずにただひたすら自分の欲を満たそうとすることが、理想を否定的に見る思想を生んだのだと思います。
私は理想が悪いとは思っていませんし、贅沢が絶対悪だとも思いません。ただ、人々はみな同じように幸福であるべきなのだと思います。自分の欲求を満たすときは、それが可能な範囲で満足するべきだと思います。